新版 バブルの物語(7 再び一〇月がやって来た)

ジョン・ケネス・ガルブレイス (著), 鈴木 哲太郎 (翻訳) 2008年12月19日


○ はじめに
 金融上の記憶というものは、せいぜいのところ二〇年しか続かないと想定すべきだ、ということである。或る大きな災厄の記憶が消え、前回の狂気が何らか装いを変えて再来し、それが金融に関心を持つ人の心をとらえるに至る、というまでには通常二〇年を要する。またこの二〇年という期間は、新しい世代の人が舞台に登場し、その先輩たちがそうであったように、新世代の革新的な天才に感銘するに至る、というまでに普通要する期間でもある。この新世代の人は、このように感銘を受けると、金融界において作用しているさらに二つの影響力 - これは非常に過ちに導きやすい - によってまどわされる。その第一は、先に詳しく述べたように、どんな個人でも、ゆたかになるや否や、自分の幸運を自らのすぐれた洞察力のせいだと軽信しがちになる、ということである。そして第二に、これと関連して、次のような傾向がある。すなわち、もっと慎ましい生活をしている人の多くは、富のある人 - その富がいかにはかないものであるにせよ - は格別の優秀な頭脳を持っている、と思い込みがちだという傾向である。時がたってみれば自己欺瞞もしくは一般的錯覚であったと判明するであろうようなものを隠蔽するためのこのような有効な仕組みが備わっているのは、金融の成果をおいて他にない。
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 一九二九年の暴落は、大不況の暗い時代への道を拓いた。この大不況の到来については、株式市場の暴落が最大の原因であったというべきである。暴落直後の数週間、広範な消費財に対する需要は減退し、経済に対する信頼感は揺らぎ、その直接の表れとして事業投資は落ち込み、企業倒産は増加した。
(7 再び一〇月がやって来た)

○ 六〇年代のブームとIOSの誘い
 一九二九年暴落に見舞われた後の時期には、株式市場を疑心暗鬼で見るという態度が一般的であった。つまり、株式市場というものは、人々の財産を収奪するために何らか仕組まれたものだ、といった感じである。しかし、一九五〇年代の半ばになると、アメリカ人はこうした見方をしないようになった。恐るべき一〇月の日々から四分の一世紀が過ぎた一九五四-五五年には、控え目ながらブームが起きた。
 一九五〇年代後期および一九六〇年代全般を通じて、さらにいくつかの投機的な上昇およびそれに続く下落がった。この時代においては、アメリカでも他の工業諸国でも、経済状況は良好であった、すばらしいとさえ言える場合もしばしばあった。すなわち、低い失業率、安定した十分な経済成長、低いインフレ率、といったものに恵まれていたのである。
(7 再び一〇月がやって来た)

○ 投機のつけが回って来る日
 一九八七年の初め、私は、この暴落及びそれと一九二九年との対比を扱った論説を『アトランティック』誌に発表した。その論説で私は、「投機のつけが回ってくる日がやって来て、一見底なしと思われるほど市場が下落する時」について述べたうえ、本書でくどいほど強調している真理にも言及しておいた。すなわち、「暴落の前には金融の天才がいるということはウォール街の最も古い通則であり、今後もこの通則が再発見されることになるだろ」と。
 しかしまた、私はこの論説で、暴落が起きても、その経済効果は一九二九年のそれほどにはひどくないであろう、と示唆しておいた。昔と今とでは、大きな変化が生じていたのだ。すなわち、社会福祉制度、もはや農業が経済の主力ではなくなっているのに農業所得支持政策がとられていること、労働組合によって賃金が下支えされていること、銀行のために預金保険(および貯蓄・貸付組合についての同様な制度)、経済活動の水準を支えるべく政府がケインズ的な意味で広くかかわっていること - すべてこれらは一九二九年の暴落の時には存在しなかった - などが経済に弾性を与えていて、その結果、深刻で長期化する不況が来る危険はそれだけ小さくなっている、と私は論じたのだった。
(7 再び一〇月がやって来た)

○ 『ニューヨーク・タイムズ』の広告
 一九八七年の暴落の直後には、過去のとんでもない基準に照らしてさえ特にひどい回避的な態度が見られた。まず最初に反応を示したのは、以前に財務長官を務めたことのある人たち、公的な事柄について論評することを職業としている人たち、そして大企業のトップにいる人たちの一団であった。彼らは共同して、暴落の責任を連邦政府の財政赤字に帰する広告を『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載した。この財政赤字は、レーガン政権の下でそれに先立つ六年間も継続しており、しかもその赤字の大きさは、保守的な財政論者からは恐るべきほどと考えられていた。ところが、あの恐ろしい一〇月の朝、この財政赤字に対する認識が目ざめたと考えられたのだ。金融市場は突然それに気づいたというわけである。金融界の高い地位にある人たちが隠れみのを提供するお手並みがここにもみられるのである。
(7 再び一〇月がやって来た)

○ 日本の不動産投機
 日本の地価の急上昇を正当化する議論は、毎日のように出ている。日本は国土が小さく、その中に経済・産業が大きくつめ込まれている、と言われている。そこで不可避的に、土地は希少であり、確かに最も希少な資源である。
(7 再び一〇月がやって来た)

 









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