ピーター・リンチの株の教科書(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

ピーター・リンチ、 ジョン・ロスチャイルド (著) 2006年10月27日


○ 1.資本主義の夜明け
 人々が物をつくってそれをお金と引き換えに売る、あるいはサービスを提供して代価を得る、というところから資本主義は始まります。しかし、人類の歴史の大部分では、資本主義は縁遠いものでした。世界の人口のほとんどは、お金など持たなかったからです。何千年という間、一般の人々は、一生の間に一度も物を買わずに過ごしました。彼らは農奴、奴隷、召使いなどとして、土地とその上にあるものすべてを所有する主人に仕えました。その見返りに、この人たちは、小屋と、野菜を自給できる程度の小さな土地を無料で提供されて、給料は受け取らなかったのです。
  ・
  ・
  ・
 今日では、誰もが自己の向上を望みます。あなたが仮に中世に生まれていて、人生の目標は“自己啓発”して“出世する”ことだなどと言ったとすると、友人たちはひんしゅくを買うことになったでしょう。その頃“出世する”などという考え方は存在しなかったのです。
 一八世紀の末頃までには、国家間の交易が行われるようになり、至るところに市場が開かれました。お金の流通も潤沢になって、物を買える人たちが増えたので、商人の生計も豊かになってきました。商店主、運送屋、交易商など、新しく生まれた商人階級は、富を蓄え、力をつけてきていました。土地などの不動産を持ち、武力を養って権勢を誇ってきた貴族階級のその力をも超える存在になろうとしていたのです。金貸しとおとしめられていた人たちの“銀行家”としての表舞台への登場です。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 2.誰がメイフラワー号の資金を出したのか
 偉大な繁栄を遂げたアメリカ。歴史の本にはその理由が数多く挙げられています。好ましい気候、肥沃な土壌、広大な国土、権利憲章、卓抜な政治制度、耐えることのない勤勉な移民の流入、侵略者から守ってくれた東西の大洋、発展を支えた発明家・夢想家と実務家、銀行、お金。そしてその列に投資家も加えてよいでしょう。
 アメリカの歴史の最初の章に記されているのは、先住のインディアン、フランスの猟師、スペインの騎士、逆の方向に走ってアメリカを発見した船乗り、アライグマの帽子をかぶった探検家、新世界で初めて感謝祭を迎えることのできた草分けの移住者たち、などです。しかその陰にあって、船、食料、そして冒険に必要な全ての費用を用立てた誰かがいたはずです。そのお金のほとんどは、イギリス、オランダ、フランスの投資家のポケットから出たものでした。それがなければ“植民地”は決して成り立たなかったはずです。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 3.株式投資の始まり、そして最初のバブル
 イギリスにも英国版ミシシッピー会社がありました。一七一一年に設立された南海会社(サウス・シー・カンパニー)がそれです。主謀者はローのやり方をそっくり真似していました。このバブルが弾けたときに彼らが蒙った損害は、フランスの場合と同じでした。南海会社の株価は暴落し、多くの人たちが一生の蓄えを失いました。そして、イギリスの金融システム自体が、崩壊の危機に陥ったのです。
  ・
  ・
  ・
 この南海(泡沫)会社の騒動によって、株式市場への評価は回復不能と思われるほどに下落して、いかなる業種の会社であろうと、その株式を売買することを違法とする法律が議会を通ったほどでした。株式取引所は閉鎖され、当時“ジョビング”と称された取引も中止されたのです。株式仲買人は、街で最も高名な男から、スリ、追いはぎ、街娼にも劣る存在へと評判を落としたのです。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 4.アメリカの上場会社第一号は銀行
 実はアメリカでは、三〇〇年近くも前に創業した会社が、現在でも操業しています。これは驚くべき事実です。戦争、恐慌、不況、その他もろもろの災害を経験してきたのですから。世代は代わり、製品の流行も移る。都市は災難に遭い、森林は切り拓かれ、環境が破壊される。何物にしても、一七〇〇年代から生き延びているものはそう多くはないでしょう。ところが、J・E・ローズ&サンズ社は、馬車用の鞭を製造するために発足したのが一七〇二年でした。
 この会社には、一八六〇年代の頃に、ある賢明なマネジャーがいました。もし彼がいなかったとしたら、とっくに消えてしまったのだろうと思われます。彼はやがては汽車の時代が来ることを予見して、馬車のないところで鞭をつくっても売れるはずがないと考えました。そこで工場設備を刷新して、ベルトコンベヤー用のベルトを製造することに決めたのです。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 5.なかなか理解されなかった銀行の役割
 一八一〇年から二〇年にかけて設立された銀行の半数は、一八二五年までに破産。一八三〇年から四〇年にかけてのものは、やはりその半数が、一八四五年までに破綻しています。当時は今日のように預金保険もなかったので、銀行が破産すると、預金者はすべてのお金を失うことになりました。安全な預金などというものはなかったのです。
 お金を保管するには、銀行は危険な場所でしたが、それでもアメリカ人は、生涯の蓄えを銀行に預けました。銀行はそのお金を、アメリカ経済の推進力になってきた、橋や運河、高速道路や鉄道などの建設プロジェクトに、貸し付という形で注入してきたのです。銀行が貸すお金は、預金者から出たものです。言い換えると、経済を推進してきた高度のエネルギーや活力は、一般市民のポケットから生まれた、と言えるでしょう。
 政府があるプロジェクトについて資金を必要とするときに、資金の調達には四つの方法があります。税金、銀行借り入れ、宝くじの販売、債券の発行です(債券については後述)。会社の場合は、銀行借り入れ、債券または株式の発行ということになります。ただ、一九世紀の前半には、株式は最後の手段でした。株式を公開するというアイデアが浸透するには、時間がかかったのです。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 6.“見えざる手”の発見
 初期の経済学者の中で、初めに頭角を現したのが、アダム・スミスというスコットランド人でした。アメリカ独立戦争の時代でしたが、生存中は冴えない存在だったようです。パーティーやピクニックを嫌い、自宅に引きこもって、もっぱら考え事と物書きで日を送り、思索に没頭するので、心ここにない夢想家、という評判をとっていたということです。彼の偉大な著書“国富のあり方、その成因についての研究”は、今日では『国富論』という書名で知られています。
 国富論はアメリカが独立を宣言した一七七六年に出版されました。当時この本への評判がそれほどでもなかったのは残念なことでした。
  ・
  ・
  ・
 国民がそれぞれ自分の職業に精を出して働けば、国民全体としてもっと良い生活ができる、国王など中央で専制的な政権を持つ者が運営していくより幸せになれる、ということです。彼の説は、今日になってみると当然と考えられますが、一七七六年の頃には、新しい、変わった考え方と受け取られたのです。何百万という人々が、それぞれ好みの物をつくり、売る。皆が好き勝手にまちまちの方向に走り出す。ところが、それでいて社会には秩序があり、人々は皆衣食住を満たされる、というのですから。仮に一〇〇人中の九九人が帽子をつくり、一人しか野菜をつくらなくなったらどうなるでしょう?国中に帽子があふれ、食べる物がなくなるのではと心配になります。ところがここにこそ“見えざる手”が助けに現れるのです。
 もちろん、現実に“見えざる手”が現れたわけではありません。しかしスミスが考えたのは、人々に野菜づくり、帽子づくりをバランスよく選ばせる何かが必ず存在するということでした。実際には彼は、需要と供給が財貨とサービスのバランスを取らせるように働く、と言ったのです。たとえば帽子メーカーの数が多すぎて帽子をつくり過ぎれば帽子の在庫が増えるので、売り手は値段を下げなければならなくなる。価格が下がると、帽子メーカーのなかには廃業に追い込まれるものが出て、野菜農家などもっと儲かるビジネスに転業するかもしれない。結局は、帽子メーカーと野菜農家の数のバランスが取れるようになるというものです。
 とはいっても、現実の世界でそううまく、完全にこのメカニズムが働くことはないでしょう。しかしスミスは、今日でも正しいと認められている、自由市場の仕組みの基本を理解していたのです。新しい製品、たとえばコンピュータに対する需要があれば、多くの企業が相次いで参入します。ついに売場にコンピュータがあふれて、売り値を下げなければならなくなるまで、その流れは続くのです。こういう競争は、私たち消費者にとって、とてもよいことです。メーカーに製品の改良を促し、価格を下げさせる効果があるからです。メーカーは数か月ごとにすばらしい新製品を出します。しかも、見劣りする旧モデルより、価格も安いときています。もし競争がなければ、新製品は出ていなかったかもしれません。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 8.ニレの木陰で始まった株式取引
 アメリカでは、一八〇〇年頃にはすでに二九五社の株式会社が設立されていました。しかし、ほとんどが私有であったため、一般大衆がその株式を持つことは難しかったのです。
  ・
  ・
  ・
 新聞に経済欄はなく、経済専門誌、投資ガイドの書物などもありません。もっとも、銘柄の数そのものも限られていました。一ダースばかりの銀行、保険会社が二社、ガス会社が一つか二つ、それで終わりでした。当時の有料氏ニューヨーク・コマーシャル・アドバイザーによれば、一八一五年三月のリストでは二四社で、そのほとんどが銀行で一八一八年が二九社、一八三〇年が三一社でした。
 最初の頃の取引は、ウォール街にあったスズカケの大木の下で行われていたと伝えられています。その後、小さな貸室や、コーヒーショップに移りましたが、あるとき、その小部屋に火事がったので、トレーダーたちは急きょ納屋の二階に場所を移して、取引を続けたというエピソードも残っています。
 ニューヨーク証券取引所(NYSE)は、次の取引を待って暇を持て余すという状況で、言われたほど“活気ある場所”とは程遠い存在でした。一一時三〇分頃に取引を始めて、一時三〇分にその日の売買を終えるという調子で、最も出来高が少なかった一八三〇年三月一六日には、ただの三一株という記録が残っています。一九九五年の平均三億三八〇〇株に比べると、なんと大きな違いでしょう。
 しかしそれから一八三五年頃までには、株式市場も活気を見せ始めて、上場銘柄数も一二一を数えています。運河、高速道路、橋梁などが国中に建設されていて、そのブームには当然お金が必要になります。その資金は株式と債券で調達されました。その二〇年ほど前に人気を集めた銀行株はもう圏外に去り、中心は鉄会社の株式と債券でした。
 一時期には、名前に“鉄道”が入った証券は、価格に関わらずなんでも売れるという状態でした。またそれに加えて、鉄道周辺の土地の価格が上がり続けたのです。投資家は資金に不足すれば銀行に借りに行き、銀行もそれに応えました。銀行は不動産取引に莫大な融資を行い、多くの農民が作物を投げ棄てて、不動産王への道を歩き始めるということになったのです。
 これはロンドンで以前に起きた南海泡沫事件に似た、アメリカ国産のバブルで、一八三六年に弾けて、株価、地価ともに、急騰したときのスピードに負けない早さで下落してしまいました。投資家が先を争ってお金に換えようとしたからです。不動産王を夢みた連中は、返す当てもない銀行ローンを抱え込んだのです。その銀行の多くが資金繰りに行き詰まって廃業に追い込まれ、預金者は虎の子を失う結果になりました。そうするうちに資金繰りが全面的に詰まってきて、誰も、何も買えないという状況が来て、金融システムは崩壊の淵に立ったのです。これが一八三七年の危機でした。
  ・
  ・
  ・
 株式市場は一八五三年と一八五七年にも暴落しました。一八五七年には、人気株のエリー鉄道株が六二ドルから一一ドルまで下げています。しかし、株式投資家の数は依然として少なく、株式市場の乱降下を考えると、かえってよかったのかもしれません。この間、最も大きな損をしたのは、またもやヨーロッパの人々でした。彼らは以前の経験を生かすこともなく、アメリカへの投資を続けていたのです。とにかく一八五〇年代には、アメリカの株式のほとんど半分を外国人、それもその大半をイギリス人が持っていたのです。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 9.農業から工業化へ
 アメリカ人の独創性は、一つは人手不足からきたものだと思われます。広い国土に少ない人口。人手不足を助ける機械を発明する必要があったのです。でも、優秀な頭脳を持つ発明家が機械をイメージしたからといって、その機械が日の目を見ることにはなりません。機械を製造にまでもっていったのは資本主義、つまり、人々がそのために進んで投資をするというシステムでした。これこそ、アメリカに発明の黄金期をもたらすことになった原動力でした。
 フルトンの汽船、ジョージ・キャボット製粉機、フランシス・キャボット・ローエルの一貫製造工場、マコーミックの巨大収穫機械(今のコンバインみたいなもので、農民を重労働から解放した)などなど。
  ・
  ・
  ・
 これらの発明を製品化するためには、お金が必要です。その一部は銀行から借り入れますが、国の内外、とくに海外で株式投資が普及するにつれて、株式市場を通じての資金調達の比率が高まっていきました。外国投資家は上昇気流に乗ったアメリカの株式市場に投資することによって、アメリカの目覚ましい発展に貢献してくれましたが、それから一五〇年後には、今度はアメリカが、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカなどの発展途上の市場に投資することによって、そのお返しをしているわけです。
  ・
  ・
  ・
 奴隷制をもたらした原因のなかでも、原始的な農業形態が大きな部分を占めていたと言えるでしょう。客観的な立場にいる人たちが良識に目覚めて、この邪悪な制度をやめさせようと力を結集したときに、奴隷制度に終止符が打たれましたが、それに力を貸したのが資本主義でした。
 農機具をつくる工場を建設するための費用を提供したのが投資家で、これによって農業は恒久的に変わりました。奴隷、農奴に頼っていた過酷な労働を、新しい機械が代わって行うようになったため、人々を一生奴隷として使う経済的なメリットが失われたのです。
  ・
  ・
  ・
 アイルランドのジャガイモ飢餓で一〇〇万人が死に、米の不作によって中国の人々が飢える・・・。人類の生活に、飢えは免れることのできない事実でした。しかしアメリカでは、国民が必要とする以上の食糧を生産し続けてきたのです。
  ・
  ・
  ・
 今日、古のよき日、人類の生活が“簡素”で“自然”だった頃を懐かしむ声をよく聞きます。しかしその人々も、“簡素”な生活が実際にはどんなものか、ということを体験してみれば、考えを変えるかもしれません。夜明けから夕闇に至るまでの労働、汗と背中の痛み。家族の衣食住の面倒をみるには、休む暇なく働いても足りません。文明の利器や生物の助けなしには、内助の功も思うに任せません。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 10.西部開拓を支えたのは誰?
 一八六九年、ニューヨーク証券取引所では一四五銘柄の株式が取引されていました。鉄鋼、機械のメーカーは巨大化して、農夫を追い出して建設した工業都市に、大西洋を渡ってきた移民を吸収したのです。それら大企業の株式を加えて、保険会社の株も上場されるようになりました。
 鉄道網は国中に広がり、五大湖の海運は隆盛を極めています。製鉄会社に鉄鉱石や石炭を運ぶはしけの往来が繁く、排ガスは大気を汚しましたが、工場での職を求める移民の流入には絶え間がありませんでした。
 彼らはアイルランド、ヨーロッパ大陸諸国、遠くは中国などからやって来て、ニューヨーク港から上陸しました。食糧難、戦争、秘密警察、差別と不正、不平不満、不安などなど、あらゆる種類のうっ積から逃れようと、やって来たのです。彼らは低賃金に甘んじて、縫製工場、精肉工場、鉄工所の下働きなど不健康で危険も多い職場環境のなかで長時間働きました。彼らはこうした最下層の職や住環境を進んで求めました。どんなに悪い条件でも、離れてきた母国の状況と比べれば、ましだったからです。そこでは人々は飢え、果てしない戦乱に巻き込まれていました。新世界での生活がそれよりよくなかったとしたら、あれだけの多くの人たちが渡って来たはずもありません。
 また、仮に自分たちがどこであれ、国に留まっていても、物事が改善される見込みはないことを彼らは知っていました。どこの国でも、ひと握りの貴族など特権階級の家系が農場を独占し、お金を貯め込み、政治を牛耳っていたからです。アメリカには夢がありました。いやそれ以上の期待を持つことができたのです。これこそ機会にあふれる地でした。労働者も自分の周囲に繁栄の訪れを見て、その一部を担いたいと考え、自分はだめでも子供の代にはと願い、またその願いは達せられてきたのです。
  ・
  ・
  ・
 アメリカ経済繁栄のもう一つの要因と考えられたのは、高率の関税によって、外国製品の輸入が事実上は難しく、国境が閉じられた状況にあったことです。今日、自由貿易が説かれ、それがいかによいことか、という議論をよく耳にします。しかしアメリカ経済が黎明期にあって、史上最高の成長を続けていて、工場もフル操業を続けていた時には、外国の競争相手はアメリカ市場に入ることができず、アメリカ企業は海外との競争から守られていたのです。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 12.“泥棒貴族”の登場
 一九世紀半ばまでは、国のビジネスの四分の一だけが会社によるものにすぎませんでしたが、二〇世紀に近づくにつれて、国民の生活のすべての面に、会社の影響が見られるようになっていきました。
 大量生産が時のキーワードでした。工場で生産された製品は、鉄道によって州境を超えて輸送され、広く販売されるようになりました。それまでの地方の市場は小さな商店の集まりで、商品の種類も限られていましたが、すっかり模相が代わってきたのです。
  ・
  ・
  ・
 機械文明と大量生産の時代の到来があまりにも早かったので、人々にはそれに備える時間がありませんでした。不動産に関する法律の書き換えが必要になり、新しい商法が制定され、商慣習も改められました。少数の人たちがその状況を利用して、一般の人々が考えも及ばないほどの富を蓄積したのです。その額は歴史上のいかなるパラオ、サルタン、王侯貴族、大帝国の支配者などの富を敵わないほどのものでした。
  ・
  ・
  ・
 大物のジョン・D・ロックフェラーです。蛇油のセールスマンの息子で、バプティスト派の熱心な信者でしたが、抜け目のない、恐るべき資本主義者になり、すべての石油会社を統合して巨大な独占企業をつくり上げました。価格の設定は意のままで、ライバルは皆、ただ従うだけでした。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 13.“独占”はなぜ怖いか
 独占こそ私たち国民の生活を脅かす元凶として、アメリカで出会ったアドルフ・ヒットラー、共産主義に次ぐものと言えるでしょう。モノポリー(独占)というゲームをしたことがある人はその意味がわかるでしょうが、たとえばすべての不動産を買い占めてしまうと、その不動産を利用している人に、莫大な額の賃借料を払わせることができ、結局、お金は全部が買い占めた者に集まることになるのです。
 現実の世界でも全く同じです。ただそれは、不動産だけにとどまりません。どの産業でも、一つだけ大企業があって、すべてを支配し、価格を自由に設定できる状況にあれば、起こり得ることです。パン屋、おもちゃ屋、航空会社など、どの業界であっても、独占状態が形成されれば、顧客側に選択の余地はありません。他所に行こうにも、別の店はないからです。すべての競争相手は独占側に取り込まれるか、あるいは廃業してしまったか、どちらかだからです。
 先に述べた貿易会社のバージニア会社、オランダ東インド会社などは、すべて独占企業でした。彼らはヨーロッパの君主から授かられた勅許状によって、新世界の広大な地域で独占的なビジネスを進めることができたのです。
 独占が世界の将来の繁栄にとって脅威であることに最初に気づいたのは『国富論』の著者アダム・スミスでした。彼は競争こそが資本主義のカギであることを悟ったのです。誰かが新たに参入して、安くて良い商品をつくるという可能性がある限りは、劣悪な商品を出し続けることはできず、競争は企業に絶えず緊張した状態を保たせる働きをします。自社の製品を改良し、価格をできるだけ安くしなければ、競争相手に顧客をとられるからです。
  ・
  ・
  ・
 アメリカでは一八七〇年代と八〇年代に、価格策定のためのカルテルが組まれています。しかそその後、“プール”と呼ばれたその種のカルテルを違法とする法律が制定されました。
 一八八〇年代に、S・C・T・ドッドという有名な弁護士が、トラストを利用してこの法律の適用を回避する方法を考案しました。トラストとは、複数の資産の運用を一人のマネジャーに委託するという、古くから行われている手法です。ジョン・D・ロックフェラー傘下の石油会社の法律部門で働いていたドッドは、数々の石油会社を包括して、トラストの管理下に置くことにしたらどうか、というアイデアをロックフェラーにぶつけてみました。そうすれば、価格設定や取引を自由にできるし、競争も避けられる、しかも完全に適法だ、というのです。
 ロックフェラーはただちに動いて、石油業界のトップ四〇社を、ドッド方式のトラストの下に組織することに成功しました。彼らにはロックフェラーの提案を受け入れる以外に道はなかったのです。反対する者はとても太刀打ちできない安売り競争を仕掛けられて、廃業に追い込まれることがわかっていたからです。
  ・
  ・
  ・
 このトラストは一夜のうちに世界最大・最強の産油業者となり、アメリカの油田のほとんどと、精製業の九〇%を支配することになったのです。ロックフェラーと側近のアドバイザーは、今や石油業界の独裁者として、思うように値決めができることになったのです。
 彼らは新しく得た“独裁者”としての力を使って鉄道会社にも圧力をかけ、石油の輸送料の引き下げにも成功しています。値下げに応じないときは廃業に追い込まれる事情は、トラスト形成の際と同じだからです。なにしろ精油業の九〇%を握られていたのですから。
 スタンダード石油は油井から精製まで、石油業のあらゆる面に独占の網を広げていきました。そして、彼らの成功を知った他の業界でも、同じようなトラストが形成されるようになったのです。砂糖、ウィスキー、綿油、製鉛、それにタバコ業界では、ジェームス・デュークが競争相手の企業群とともにアメリカン・タバコ社を創設しています。
  ・
  ・
  ・
 アメリカの株式公開会社の三分の一が、一八九五年から一九〇四年の間に、トラスト、あるいは合併によって消え失せました。主要産業のほとんどでは、トラストとコングロマリットが、望むままに価格を上げたり、ビジネスンのあらゆる分野に影響を及ぼすようになっていきました。
  ・
  ・
  ・
 ひと握りのインサイダーが物価と賃金を思いどおりに動かすことになると、自由市場が基本である資本主義は終わりだということです。
  ・
  ・
  ・
 労組、新聞、法廷、そして一部の勇気ある政界のリーダーなどが、こぞってトラストに抵抗して、ひと握りの欲深い連中から国を救ったのです。もしこれら反トラスト騒ぎがなかったとしたら、アメリカの平均的な国民の生活は、ロシアの農奴と同程度の水準にとどまっていたかもしれません。
  ・
  ・
  ・
 一九一一年にスタンダード石油をはじめとして、多くの巨大トラストは解散に追い込まれ、主要産業での競争が復活しました。以来、政府は、あまりにも強大になり、業界で独占的な地位を築く恐れのある会社が出現しないかと、監視の目を光らせてきました。そういう事例があればいつでも、政府は反トラスト法に基づく訴えを起こすことができるし、もし勝訴すれば、法廷はその被告会社をお互いに独立した企業群に分割させることができたのです。それによって、競争状態が保たれてきたのでした。
  ・
  ・
  ・
 AT&Tはある意味で、唯一の電話会社でした。その判決によって同社は、一つの親会社のマ・ベルと七つのベビー・ベルに八分割させられたのです。業務分野はマ・ベルが長距離部門を保有し、ベビー・ベルが地域のビジネスに専念するという分担でした。この重大な裁決が下された後に、多くの会社が参入してマ・ベルやベビー・ベルに競争を仕掛けたため、電話料金は日に日に低下を続けたのです。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 14.“平均株価”の誕生
 出発点のダウ・ジョーンズ平均には九つの鉄道会社が含まれていました。ウォール街でそれほど高く評価されていた産業であり、アメリカのビジネスは永遠に鉄道会社によって支配されていくだろうと皆が信じていたのです。
  ・
  ・
  ・
 最初の採用銘柄はいずれも、現在でいえばマイクロソフトやウォルマートのような、それぞれの分野をリードする強大な会社でした。しかし、そのほとんどは完全に消滅してしまって、今や跡形もありません。
 アメリカン・コットンオイル、ナショナル・リード、USラバーなどといった名前を聞いたことがありますか? これらの会社は全部、最初のリストには入っていたのです。残っているのはゼネラル・エレクトリック一社だけです。
 これは投資家にとって重要な教訓と言えるでしょう。ビジネスはスポーツと同じで、勝ち続けているチームでも繁栄している企業でも、永久にトップの地位を保つことはできません。トップを維持することの困難さには、それを勝ち取ることの難しさを上回るものがあるようです。
  ・
  ・
  ・
 最初のダウは、アメリカはもう、鉱山会社や鉄鋼会社などを基盤に繁栄を築いた、荒々しく進取の気があふれた巨大産業の国ではないことを示しています。工場や溶鉱炉が目抜き通りウォール街の裏手に消えていった代わりに、レストラン、銀行、量販店、レジャー関連企業、そして最近ではコンピュータとソフトウエア会社が先頭を切っているのです。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 15.企業城下町の功罪を考える
 資本主義のいちばん良い点は、赤字の会社にも挽回を図るチャンスがあり、それができないときには自ら廃業することもできるということです。この仕組みであれば、非生産的なビジネスは死滅し、社員は他の盛業中の産業に移ることができます。ところが、会社が社員に対して第二の役割を担っているケース、つまり医者、先生、葬儀屋などとしての機能を果たしていると、それを続けるためには廃業するわけにはいかない、ということになるかもしれません。
 これこそ、共産主義が崩壊し、社会主義が問題含みであることの理由の一つです。共産主義者のビジネスは、本当はビジネスではなかったのです。中央には計画者として知られるボスがいましたが、そのボスが必要だと決めたから、という理由で存在したにすぎません。たとえば、そのボスたちは製鉄プランをつくることが好きだったので、一時期、ロシアの製鉄業は非常に高い水準にあり、至るところに製鉄所が見られました。
 一方では、靴や衣類をつくる工場は非常に少なかったのです。靴や衣料品の売り場には長い列ができました。ロシアでの消費物資への潜在的な需要は、計り知れないほど大きいものでした。人々はもっと食べたい、着たいと切望していたのですが、ボスは気にもせず、製鉄プランの建設を続けました。
 共産主義の経済では、すべての資源、つまり、つくり、買い、または売られる物は、全部が小グループのマネジャーの支配下にありました。一方、資本主義の経済では、製鉄所の数が多くなり過ぎると、鉄鋼は過剰生産になり、価格が下がり、会社の業績は悪化します。投資家は鉄鋼株を買うことをやめ、銀行も融資を見送ることになります。製鉄所は生産を削除し、資金がないので、新たな設備投資をして業務拡大を図ることなどできなくなります。
 その結果、鉄鋼業界に投資されなかったお金は、他の方面に向けられます。製靴工場、ジーンズ縫製工場、ショッピングモール、ウォーター・スライド、住宅団地など、過剰生産に陥っていなくて、まだ需要の伸びが見込める分野です。スミスの“見えざる手”はつねにその効力を失うことはなかったのです。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 16.マルクスの間違い
 マルクスによれば、資本主義には終わりがある。経済の発展に応じて、人が機械に従属させられる傾向が強まり、労働の価値は低下していく。世界の労働者の労働時間は延長されていくのに引き替え、賃金は低下を続け、ついには労働者は立ち上がり、工場を焼いて共産党に参加する、という図式にあるのです。
 彼が資本論を書いていた頃は、たしかに工場で働くことに喜びはありませんでした。工場は暗く、騒音に満ちて、汚く、危険な所でした。女子供まで、一日一二時間から一八時間の間、機械にしばりつけられて過ごし、賃金はごくわずかでした。なかには強制的に連れて来られたうえに、病気にかかる人も多かったのです。大気は工場排気に汚染され、煤煙で空が暗くなるほどでした。
  ・
  ・
  ・
 しかし彼の学説は完全に間違っていました。労働時間は長く、賃金は低くなる、という方向が現実はまったく逆で、時間が短縮される一方で賃金は上昇していったのです。工場には次々に新式の機械が導入されて、労働者は同じ時間内に、従来よりも多くの製品をつくり出すことができるようになっていったからです。
 より良い効率の機械を得て、労働者の時間の価値は下がるどころか逆に上がり、工場側も賃金を上げることができるようになりました。賃上げがいつも、紛争もなく行われたということではないのですが、とにかく十分なペースで実行され、労働環境も改善され、マルクスの推論とは裏腹に、労働者の生活は向上していったのです。これが工場の数が最も多い国であるイギリス、アメリカなどの西欧諸国が繁栄していった理由であり、その他の国々は、ひと握りの地主階級がすべてを保有するという状態にとどまったのです。
 以上がマルクスと、その華麗な公式にまつわるお話です。終末を迎えたのは共産主義のほうでした。共産主義諸国の生活水準が低下を続ける一方で、資本主義諸国のそれは上昇していきました。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 17.一九二九年の大暴落前夜
 長期的に見ると、鉄道業は経済のリーダーとしての地位を失って社会生活の影の部分に引っ込んでしまい、その株式も、何十年という期間で見れば、平凡な投資対象にしかすぎなかったのです。このような予測をした経済学者は何人もいなかったし、ましてや占い師のなかにはほとんどいなかったと言ってもよいでしょう。
 鉄道の斜陽化の大きな要因になった自動車産業が、投資家の注目を集めました。
  ・
  ・
  ・
 一九二九年の暴落で、多くの投資家がすべてを失いました。しかし、彼らに株を売った証券会社は、その危機を乗り切っています。あまり知られていない少数の業者が破産していますが、大半は生き残ったようです。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 18.大恐慌は繰り返さない
 もちろん暴落は繰り返し起こり得ます。一九八七年には大きいのがあり、一九八一~八二年もそれより小さいのがありました。その前にも、一九七三~七四年には大きいのがありましたが、結局、いつもそうであったように、株価は戻しています。良い面をとらえれば、暴落は「株を安値で買えるごく稀なチャンス」とも言えるでしょう。
 暴落についてのいちばんの問題は、株価がいつ戻るか、ということです。一九七二年にダウ平均は一〇〇〇ドルを付けました。それから一〇年後のある時点で、八〇〇ドルを下回っています。この間の投資家は、ただ耐えるしかありませんでした。しかしそれでさえ、一九二九年の暴落に比べれば大したことはなかったのです。あのときは、多くの株は暴落前の水準に戻るのに二五年近くかかったのですから。
  ・
  ・
  ・
 ほとんどの歴史家は、よく言われている、一九二九年の暴落が不況の原因である、という考え方は誤りだとしています。当時のアメリカ人で株を持っている人はごく少数でした。だから、大多数は大暴落では一セントも損をしなかったのです。
 不況は、世界的な経済の減速が原因でした。政府がマネーサプライについての対応を誤り、利上げのタイミングを間違ったのが、それを助長したのです。経済を刺激するために金融を緩和しなければならないときに、政府はまったく逆をやり、資金を吸い上げたので、経済に急ブレーキがかかり、止まってしまいました。子孫の私たちアメリカ人にとって幸運だったのは、この間違いによって、政府が貴重な経験を積んだことでした。今では、景気が失速すると、政府はただちに金融緩和をとり、金利を低めに誘導します。そうすると資金手当てが容易になり、借入れの金利負担が軽くなります。
  ・
  ・
  ・
 われわれは小児麻痺の場合と同じように、不況についても恒久的な解決策を見つけた、と考えることができるでしょうか? それにはいくつかの根拠はあります。第一に、政府はFRB(連邦準備理事会)を通じて、景気に陰りが見えたときには、いつでも金利を下げ、金融緩和策を実行することができる体制にあることです。第二に、今は社会保障費や年金で暮らす人たちが何百万人といますし、それにいろいろな段階の連邦、地方の政府関係職員約一八〇〇万人を加えれば、相当な数の消費者がいて、安定した消費支出を見込むことができます。したがって、景気は減速はしても、一九三〇年代に経験したように経済が完全に停滞してしまうということにはならないのです。
 第三に、現在では銀行やS&L(貯蓄貸付組合)では預金保険があるので、万一、銀行などが破産しても、預金者はすべてを失うということにはなりません。一九三〇年代、何百という銀行が破産して店を閉めたときには、預金者はすべてを失ったのでした。
  ・
  ・
  ・
 経済が活力を保っている限り、会社は利益をあげることができます。儲かっている間は、株価がゼロになることはありません。大部分の会社は次の活状のときまで生き残り、株価も回復するというものです。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 19.大恐慌でも伸びた会社
 大恐慌でさえ、すべての人々に同じように災いを与えたわけではありません。金詰まりで、何百万という人たちが職を失ったので、おおむね状況が悪かったのは事実です。しかし、一部の会社とその従業員、そして、その株主にとっては、ビジネスは順調だったのです。
 食品ストアーのA&P社がその好例です。他の誰もが店を閉めにかかっていたときに、A&Pは大勢に反して、新しく店を開いていきました。そして売上げ、利益ともに伸びたのです。どんなに景気が落ち込もうと、人々は食料品を買わなければならなかったからです。一九二八年から三三年にかけてGNPは半分になりましたが、収入がどんなに少なくても、それは食費に回されたのです。
 景気後退期や不況、金詰まりの時期でも、業態によっては、支障なく乗り切れることができる会社があります。そのような会社は、消費関連成長企業と呼ばれています。これらの会社は値の張らない商品を扱います。ビール、清涼飲料水、スナック菓子、あるいは薬品などの生活必需品などです。リグレイズ社のように、チューイングガムやキャンディーメーカがそうです。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 20.アメリカの復活
 戦後の期間は、公開会社に大きな変動がありました。毎年、何百という会社が設立されたのです。しかし、アメリカ人の大多数は株を避けていました。人々は一九二九年の大暴落を覚えていて、一生の蓄えを株式市場で失いたくないと考えていたのです。ということで、当時は、優良企業の株価は、バーゲン価格と言えるほど割安になっていたのです。その頃株を買った少数の勇気ある人たちが大いに報われたことは、言うまでもないでしょう。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)

○ 21.投資家保護と不正追放
 政府は、株式ブローカー、トレーダー、投資信託、投資顧問業、会社経営者、会社そのもの、などについて厳密な法規制を制定しているのです。
 大恐慌の前には、このような投資家保護に関連した法規の多くは、ありませんでした。会社は詳細な報告書の提出を求められることもなく、問題があっても伏せておくことができました。いわゆるインサイダー - 会社内部の情報を真っ先に知ることができる立場にある者 - は、情報が良い悪いにかかわらず、その情報が表面化して株価が動く前に株式を売買する(インサイダー取引)ことによって利益を得ることができたのでした。
 一九二九年の大暴落までは、泥棒貴族や相場師のなかには、自らの利益のために株価を上げ下げして操る、つまり株価操作を常用する者がいました。彼らは一般投資家に不安を与えて株を売らせておいて、後にその株価を高値に押し上げる。そして、同じ株を異常な高値で買わせるなどの、操作の方法に通じていたのです。
 自分が持っている会社について、よく知ろうとする投資家はあまりいませんでした。株価の上下は、その会社のファンダメンタルズ、つまり業績などの事情とほとんど関連がないことに気づいていたからです。それより彼らは、うまく立ち回って儲けている投機資金の動きを追っかけようと考えます。それはその投資家自身がインサイダーでもない限りは不可能なことでした。その頃、株を買うことは、プロを相手にポーカーをするようなものでした。しかもプロだけが手札を見ることができるという不公平なルールのゲームです。
(1章 資本主義の歴史 - 簡単なおさらい)










← 序                                                          2章 →
トップページ