ピーター・リンチの株式投資の法則(第4章 マゼラン・ファンド・前期)

ピーター・リンチ (著), 酒巻 英雄 (監訳) 2002年3月14日


○ はじめに
 この回顧は、私の失敗から学ぼうとするファンド・マネジャーや一般投資家にとって、役に立つものと思う。あるいは、単に、私の成功と失敗に興味を持つ方々でも、楽しんでもらえると思う。これまでのマゼラン・ファンドの歴史を、外交官の回顧録のように、三つの局面(前期、中期、後期)に分けて紹介する。
  ・
  ・
  ・
 私がフィデリティ社にアナリストとして入社したとき、株式市場はちょうど低迷期にさしかかっていた。株価は、すでにピークを打ち、二九年から三二年の大恐慌以来の厳しい局面となった、七二年から七四年の相場下落に向けて進みはじめていた。そうしたなか、突然、パタリと、誰も投資信託を買おうとしなくなった。人々の興味の対象から全く消え失せてしまったのだ。強力な販売部隊も霧散霧消し、商売はあがったりとなった。
  ・
  ・
  ・
 六六年に、総資産が二〇〇〇万ドルあったマゼラン・ファンドの解約が相次ぎ、運用資金が減ったため、七六年までに、純資産は六〇〇万ドルとなってしまった。ファンド運用の運用手数料〇.六パーセントでは年間三万六〇〇〇ドルの収入にすぎず、これでは私の給料はおろか、電気代を払うことも難しかった。
  ・
  ・
  ・
 七七年に、私はマゼラン・ファンドの運用を引き継いだ。そのときの状況は悲惨であった。二つのファンドは一つになっており、総資産は一八〇〇万ドル、五〇〇〇万ドルの税務上の繰越損失を抱え、厳しい株式市場、そして顧客の数は急速に減少していった。新たに打つべき策もなく、フィデリティ社はマゼラン・ファンドの新規募集を凍結した。
  ・
  ・
  ・
 運用を始めた最初の四年間は、私にとってはありがたかった時期と感謝している。この間、特に人目にさらされず、株式運用を学び、失敗もやらかすことができた。ファンド・マネジャーと運動選手には、共通点がある。ゆっくり育てられれば、長期間にわたり、よい成績を上げられるのだ。
  ・
  ・
  ・
 七七年の一二月末までに、組み入れが大きかった銘柄は、コンゴリアム、トランスアメリカ、ユニオン・オイル、そしてエトナ保険であった。さらに、ヘインズ(妻のキャロリンに感謝。彼女はここの製品にぞっこんであった)、タコ・ベル(私の最初のトレーダーであるチャーリー・マックスフィールドは、買い注文に対し、「何それ、メキシコの電話会社?」と言った)、そしてファニーメイなども私が選んだ銘柄であった。
 コンゴリアムは、継ぎ目のない新しいビニール製のフロアー材を開発した。まるでカーペットのように、キッチン全体に敷くことができるものだ。また、フロアー材以外に、国防省向けにフリゲート艦も納入していた。その建造方法は、プレハブ住宅で使われるのと同じ規格化技術を用いていた。私は、同社のプレハブ・フリゲート艦に将来の成功を見てとった。
 タコ・ベルのおいしいメキシコ料理は、私の好物であった。全米の九割は、同社がまだ未開拓の商圏であり、さらに同社は、好業績で財務体質が強く、本社はまるで隣家のガレージのように質素であった。
  ・
  ・
  ・
 銘柄選択は、すべての経験に基づき、鍛え抜かれた嗅覚をもつ猟犬のように、一つひとつ嗅ぎわけていった。その際、特定の要件については、その詳細にこだわった。たとえば、テレビ局が増益となる要因は何か。ファンドで放送株のウエイトを増やすか、減らすかということ以上に、私はその理由にこだわった。事業環境が好転しているというある放送関係者に会って、話を聞き、彼から最も脅威的なライバルの名前を聞き出す。その後すぐにその会社を調べ、しばしば、その株を買うことにつながった。ヒントはいろいろな方向からやってくる。多くの産業について、わずかしか知識がないといいうことは、必ずしも不利なことではない。
  ・
  ・
  ・
 初期のころで最も稼いだ銘柄のうち二つは、大手の石油会社、ユノカルとロイヤル・ダッチであった。読者は、二〇〇〇万ドルのファンドならば大手石油株など無視して、より株価上昇が期待できる小型成長株に集中すべきだと思うかもしれない。しかし、私は、ロイヤル・ダッチが収益の転換期にあり、ウォール街がそのことに気づいていなかった点に着目した。そこでロイヤル・ダッチ・シェル株に投資したのだった。
  ・
  ・
  ・
 当時、私はファストフード・レストランに注目していた。なぜならとてもわかりやすかったからだ。ある地域で成功したレストランは、別の所でも同じパターンですばらしい成功を収めるチャンスがあった。たとえばタコ・ベルは、まずカリフォルニアに多くの店を持ち、そこでの地盤を固めた後は、東部に進出、収益は年率二〇パーセントから三〇パーセントの成長を達成していた。
  ・
  ・
  ・
 これと同様に、アトランタにある日曜大工用のスーパー・マーケットにも実地調査を行ったことがある。ホーム・デポだ。ネジ回しや、ボルト、ブロック、モーターの豊富な在庫、低価格は言うまでもなく、その丁寧なサービス、従業員の商品知識に感銘した。これなら、日曜大工たちは、値段の高く、在庫も乏しい街のペンキ屋や工具屋に行く理由がない。
 この当時は、まだホーム・デポの初期のころであった。株価も一株25セントで売られていた。私は、自信の目で確かめた結果、その株を購入した。だが、一年後、興味を失ったため、売却している。図表4-1に見られるように、後に自責の念にかられることになった。25セントの株価は65ドルになり、実に一五年間で二六〇倍になったのだから。会社ができたてのころから注目しておきながら、その会社の潜在的成長力を見抜けなかったのだ。
  ・
  ・
  ・
 ホーム・デポが組み入れられていなかったにせよ、マゼラン・ファンドは、七九年の好調で、資産は二倍になり、八〇年にもこの勢いは続いた。小さなグループにすぎなかった私の株主は、S&P五〇〇種指数が三二パーセント上昇したとき、六九.九%の値上がりを享受した。当時、最大の組み入れ銘柄は、アミューズメント・セクター、保険、小売セクターであった。コンビニエンス・ストアには非常に注目していた。ホップイン・フーズや、ピックン・セイブ、ショップ&ゴー、ショップ&ショップ、サンシャイン・ジュニアを保有していた。
(第4章 マゼラン・ファンド・前期)

○ 今日のランチはユニオン・カーバイド
 いつもミーティングの最後で、私は次のような質問を行ってきた。「ライバル社のなかでは、どこが最も脅威となるか?」。同業からビジネスがうまくいっている、あるいは改善していると思われているということは、強力なお墨付きとなる。最終的に、私はしばしばそのライバル会社の株を買っていた。
  ・
  ・
  ・
 八〇年には、金利は歴史的な高水準に達していた。カーター政権の末期に、連銀は景気にブレーキをかけたのだ。こうした状況下、銀行株は収益見通しに明るい兆しが出て来たにもかかわらず、株価が純資産価値以下に放置されていた。
  ・
  ・
  ・
 ペップ・ボーイズやダンキン・ドーナツ、その他の高成長銘柄と同様に何年も年率一五パーセント成長を続ける地方銀行が、株式市場で低いPERにとどまっている事実には驚きを隠しきれなかった。投資家の間での銀行株の見方は、成熟した公益株であり、株価も大きな上昇が見込めないというものであった。
 こうした地方銀行への誤った評価は、仕込みのチャンスを与えてくれた。
  ・
  ・
  ・
 マゼラン・ファンドは、八一年に初めて一億ドルを超えた。久々に、一般投資家の関心が盛り上がったのだが、株式市場は期待に反して弱含んだ。往々にして、人々が株式投資に強気になりはじめたときに、株価は調整されるものである。
 マゼラン・ファンドが好スタートを切ったことは、何ら不思議ではない。ファンドへの組入れ上位一〇銘柄は、PERでみると八七年は四~六倍の水準であり、七九年にいは三~五倍であったからだ。優良株が収益の三~六倍の株価水準で売られているときには、投資家は損をしないものである。
 当時のお気に入りの銘柄の多くは、すでに述べたように中小型株(小売株や銀行株を含む)であった。七〇年代の終わりに、ファンド・マネジャーやその他の専門家は、そういった銘柄はすでにひと相場終えており、これからはブルー・チップの投資タイミングだと、アドバイスしてくれた。だが、ブルー・チップには、はっとするようなニュースもなく、小型株に比べて、二倍も高い株価水準にあった。
(第4章 マゼラン・ファンド・前期)









← 第3章                                                       第5章 →
トップページ