バフェット投資の王道(第2章 億万長者はどのようにして生まれたか)

ロバート・P・マイルズ (著), 三原 淳雄 (著), 小野 一郎 (著) 2005年1月17日


○ はじめに
 バフェットがパートナーシップを通して、ニューイングランドにある当時(一九六七年)売上高三九〇〇万ドルの繊維会社だったバークシャー・ハサウェイの株式を最初に買い始めたのは、一九六〇年代前半だった。当時の株価は一株七ドルから一七ドルだった。一九六五年にバフェットたちは二〇〇〇万ドル足らずの資金で株式の過半数を手に入れて経営権を握った。それからの四〇年間にバフェットは、追加資金をほとんど投入せずに同社の価値を一〇〇〇億ドル超に育て上げた。
(弟2章 億万長者はどのようにして生まれたか)

○ 生まれながらの資産形成の特異な才能
 バフェットが好んで言う話にこんなものもある。自分たちは卵子の宝くじに当たったのだと。民主的な資本主義社会の中心で生まれたタイミングのよさは見過ごせない。彼が一〇〇年早く生まれていたら、あるいは、どこかの発展途上国で生まれていたら、さらには投資以外の才能を持って生まれていたら、彼に関して三〇冊もの本が出版され、さらにこれからも増えていきそうだという状況は生まれなかっただろう。
 バフェットは生来、企業の価値を評価する才能に恵まれていた。しかも、経済が最も発展する時期、資本主義が歴史上最良のときに生まれたのである。アメリカで生まれたことの幸福も非常に大きなことである。アメリカは、人口で世界の四%にすぎないが、資本と公開企業の半分を持ち、政治や法律が、投資を他の職業よりも極めて有利に扱っている国である。しかも、二〇世紀は生活水準が七倍向上した世紀なのである。
(弟2章 億万長者はどのようにして生まれたか)

○ 投資には二〇%の利回りを - 六歳のときのエピソード
 バフェット少年は六歳になった。彼の祖父と曽祖父は、オハマでバフェット・アンド・サンという小さな食料雑貨店を営んでいた。少年はこの頃すでに事業経営者の素質を発揮していた。バフェットは、コカ・コーラの六本パックを二五セントで購入し、一本五セントでばら売りした。バフェットが生涯基準とする二〇%利回りを、このときすでに持っていたのである。
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 バフェットは八歳になると、お金とビジネスについての本を読み始めた。当時の愛読書は『一〇〇〇ドルを手に入れる一〇〇〇の方法』だった。彼はこの本を何度も読んだ。一〇歳の頃には、未来の億万長者は地元オハマの図書館で、投資、ファイナン、そして株式市場に関するあらゆる本に目を通していた。
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 一九四二年に一一歳のバフェットは、板を書きながら、生まれて初めて株式を買った。彼はシティ・サービス社の優先株式六株(自分の三株、姉のドリスに三株)を一株三八ドルで購入した。この三株の株式は、当時のバフェットのほぼ全財産だった。つまり、当時の彼の財産は約一〇〇ドルであった。株価は間もなく二七ドルまで下がったが、その後、すぐに四〇ドルまで戻した。バフェットは株式を売却したが、その直後に重要な教訓を得ることになった。株価が突然二〇〇ドルに跳ね上がったのだ。当時はまだ本質までは理解していなかっただろうが、売るタイミングが早過ぎること、企業の価値でなく株価を見て売ったことは、バフェットの投資哲学の基礎を築いたに違いない。
(弟2章 億万長者はどのようにして生まれたか)

○ 最初の仕事、最初のベンチャー・ビジネス - わずか一四歳のとき
 高校三年生のとき、バフェットは親友ダン・ダンリーとともに、当初三〇〇ドルだったピンボールマシンをわずか二五ドルで購入した。彼が作った会社の名前をつける際、お客となる子供たちにもっともらしく聞こえるように、ウィルソンという架空の人物を考えだし、ウィルソン・コイン・オペレーテッド・マシン・カンパニーと名付け、戦略を十分に練り、ワシントンDC近郊の散髪屋にマシンを設置した。
 一プレイ五セントとし、最初の夜に二~四ドルを手にした。二五ドルに対する利回りとしては、ほとんど望みえないほどよいものだった。散髪屋には、マシンの入れかについてはウィルソンに相談しなくてはならないといつも説明しており、古いマシンを新しいのと入れ替えないなど都合の悪いことはすべてウィルソンのせいにした。ピーク時にはさまざまな場所に合計七台のマシンを置き、週に五〇ドルを稼いだ。少年たちは一年もたたずに、マシンを退役軍人に一二〇〇ドルで売却した。
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○ バリュー投資哲学の芽生え - 大学時代
 グレアムとデビッド・ドッドが二人ともコロンビア大学の教授をしていた。二人は協力して七三五ページにも及ぶ『証券分析』を著した。バフェットは、株価が魅力的かどうかを判断する前に、企業の価値を的確に把握する必要のあるすべての株式市場参加者に、この本を推奨している。
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 GEICOの本社を訪問したバフェットは、これらすべてのポイントだけでなく、他にも多くのことを理解することができた。このとき真剣に調査したおかげで、後日、この企業への投資が真の価値と比較して割安でると判断し、当時の全財産一万二八二ドルを同社に投資した。こうして自分自身で調べることがなかったら、当時の全財産を一つの銘柄に投資するだけの確信は得られなかっただろう。なお、この集中投資はバフェットの資産形成のもう一つの主要な構成要素である。一年後にGEICOの株式を一万五二五九ドルで売却した。
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 彼は調査によって、GEICOが代理店を通さずに直接販売することにより、競合他社の五倍の利益を稼いでいることを知った。バフェットはGEICOを熟知していたので、バークシャー・ハサウェイは四五七〇万ドルを投じて同社株式の三分の一を取得した。
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 一九五一年にバフェットは経済学修士となった。彼はウォールストリートで働くことを希望したが、父ハワードも師のグレアムも強く反対した。バフェットの人生に最も大きな影響を与えた二人はともに大恐慌を経験し、株式市場の浮き沈みをよく理解していた。若くてやる気満々の卒業生に、二人は確実性のある仕事を探すべきだとアドバイスし、投資と無関係の大手企業への就職を勧めた。二人の指導者は、株式市場が過熱していると考えていた。しかし、バフェットは二人のアドバイスに従わなかった。
(弟2章 億万長者はどのようにして生まれたか)

○ 学ぶべき師と実践すべき習慣を選択すること
 バフェットが勧める方法は、素晴らしいと思う人の性格や特徴を観察し、書き留めておくことである。これを早く始めておけば、望ましい性格などを自分のものにすることができる。同様に、望ましいと考える習慣をリストアップしておけば、その人と同じ習慣を身につけることができる。人格は、持って生まれた生活や特権、家柄、財産の状態によって形づけられるのではなく、それぞれに与えられた条件の中で何を選択するかによって決まるのである。
(弟2章 億万長者はどのようにして生まれたか)

○ 若い頃の業務経験 - 証券会社時代
 グレアムの下での二年間の修行を経て、バフェットは大好きな生まれ故郷で投資のためのパートナーシップを自分自身で組成することにした。大学卒業後六年間で、バフェットの純資産は九八〇〇ドルから一四万ドル以上に膨らんでいた。それは、あくまでも収入以上の支出をせず、桁外れのバリュー投資を行って得たものだった。ある株式はPER一倍、つまり年間一ドルの利益を生む株式の価格が一ドルだったということもあり、二六歳の青年にとって、笑いが止まらない経験だった。
(弟2章 億万長者はどのようにして生まれたか)

○ 株式のポートフォリを構築する
 彼が最も成功した一九六八年の翌年、バフェットはパートナーシップを解消し、一億ドルのポートフォリを出資者に配分した。パートナーたちの期待はますます高まる一方だったが、市場は急騰しており、もはやバリュー投資を行う魅力のある対象が見当たらないと感じたためだった(常にパートナーや株主の期待が高くなり過ぎないようにしておくことは、バフェットの成功の秘訣の一つである)。パートナーたちへの資産配分の一部はバークシャー・ハサウェイの株式で賄われ、バフェット自身の財産は二五〇〇万ドルになった。このときバフェットはわずか三九歳であり、配分後もバークシャー・ハサウェイの株式の半分近くを保有していた。
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 バークシャーの一九六七年の売上高(主に繊維事業)は四〇〇〇万ドルで、利益は一〇〇万ドルだった。最近の同社は、六六〇億ドルの売上で、六〇億ドルの利益を生んでいる。
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 バフェットが新聞配達をしてからほぼ三〇年後の一九七三年の下げ相場の過程で、バークシャー社はワシントン・ポスト社グループの筆頭株主になった。彼は今も同グループの株式を保有しており、バークシャーは毎年、当初の投資金額にほぼ匹敵する六〇〇万ドルの配当を受け取っている。一年後の一九七四年に、石油危機に見舞われ、バフェットは下げ相場で純資産の半分を失った。株式市場は一九七九年に回復し、バークシャー社の株式は二九〇ドルになり、四九歳のときのバフェットの資産は一億四〇〇〇万ドルになった。
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 優良企業へのバリュー投資、保険事業のフロートの活用、そして子会社群の生む利益によって、四年後のバークシャーの株式ポートフォリオは一三億ドルになった。一九八三年の同社の株価は、七七五ドルで始まり、年末には一三〇〇ドルまで上昇した。バフェットの個人資産は六億二〇〇〇万ドルになり、億万長者への道を確実にしていた。バフェトは、フォーブス誌が始めた資産家四〇〇人のリストに加わった。
(弟2章 億万長者はどのようにして生まれたか)

○ バフェット、億万長者になる
 一九八八年になると、五八歳のバフェットは子供の頃に売っていたコカ・コーラのビジネスに戻ってきた。彼は、コカ・コーラ社の株式を買い始め、一〇億ドルを投じて同社の株式の八%を所有するにいたった。今やバフェットは、子供の頃のビジネスの最大の株主となっていた(一九三六年に彼に二〇%の利益をもたらした事業を思い出されただろうか)。当時、コカ・コーラ社は自社株買いを行っており、一方、バフェットは同社の経営陣の優秀さに強い印象を持っていた。一株五ドルで同社の株式を買い始めたが、ハイテク銘柄と違い、バフェットにはコカ・コーラの缶に何が入っているかを理解していた。この事業が利益を生む仕組みも、世界全体での同社の比較優位も理解していた。そして、成功した他の投資と同様に、同社の利益が増えるであろうということをバフェットは知っていた。
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 パートナーシップ時代の一三年間の平均リターン年二九.五五%に加えて、バークシャーになってからの三八年間の平均リターン二二.六%を、S&P500指数の平均リターン一一%と比較すれば、バフェットの五〇年間の投資実績の足元に及ぶ者はいないと言える。
 バークシャー・ハサウェイの売上高もかつて四〇〇〇万ドルから、現在の六六〇億ドルへと成長させた。
(弟2章 億万長者はどのようにして生まれたか)









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